ゴジラになりたい!~強さへのあこがれと自由~

みなさま、こんにちは。
春の行楽シーズン、いかがお過ごしでしょうか。

先日私は『ゴジラー1.0』を、映画館へ観に行ってきました。
1人で。

田舎ということもあり、女性が一人で映画を見ていること自体少なめですし、ましてや巨大生物系の映画ではほとんど見かけません。
だいたいファミリーやカップルの間に挟まれながら鑑賞しています。

・・・切ない気持ちもあります。

きゃー!とかぎゅっ!とかできたらさらに楽しいのだろうなぁ。
パートナーがいないのだから、仕方がありません。

巨大生物を大きいスクリーンで見たい欲求が、切なさを上回ります。

なぜ私はカップルの横でポップコーンをむしゃむしゃ食べながら、巨大生物の映画を見るのか。

++++++
私は子供の頃から、『強いもの』『大きいもの』が大好きでした。
恐竜やクジラ、ガンダムなどなど。

その中でも特に大好きだったのは『ゴジラ』です。

私が始めてゴジラ映画を見たのは、小学生の時でした。

夏休み恒例の映画鑑賞でしたが、内容としては小学生の私にはとても難しかったと記憶しています。
結末もあまり覚えていないのですが、『ゴジラは強くてかっこいい』ことが印象に残りました。

それから数十年、邦画からハリウッド映画にいたるまで、ゴジラを見続けています。

なぜここまで巨大生物、とりわけゴジラに惹かれるのだろうと、あらためて考えたのです。

まずですね、私にはゴジラがとても自由に見えました。

ゴジラは、他の生物(怪獣以外)の干渉を受けないのです!!
放射能がエネルギー源で、食物連鎖の外にいるからです。
シリーズによって設定は様々ですが、地球の生き物の意志に関係なく、エネルギーや頂点を求め暴れて去り行く。
(私の勝手なまとめです!)

そして最強です。
水陸両用で、体が機能する限り戦い続け、物理的にも、メンタル的に(??)も強い。
これらが心底うらやましいと思っていました。

自由で、干渉されなくても生きていけて、心も体も強いところ。

逆に考えると、私は自分のことを「自由が無くて、一人では生きていけなく、心も体も弱い」と思っていたようです。
自分が持っていないものだから、強く憧れていたのだと思います。

けれど、人間なのでゴジラのように強くなくて当然ですし、ひとりで生きているわけでもありません。

私たちは何らかのコミュニティに属していて(家族、親族、地域、仕事、学校、趣味など)干渉しあっています。
ゴジラと違って誰かが作ったものを買っていますし、整備された道路も通るし、水道も使います。

人として生きているかぎり、先人や、今現在だれかの手を借り続けているというのに。

「ゴジラのように強ければ、誰にも頼らず自由でいられる」
この思いは長い間、私の中にあり続けました。

以前の私が感じていた『弱さ』の基準とは、誰かを頼ること、助けてもらうこと。

自分で何でもできれば、助けなど必要のない『強い人』だと勘違いをしていましたし、強くなければ私という存在はつぶされてしまうような感覚がありました。

これは私が周りを『敵』だと認識していたせいで、助けてもらうことを敗北のように感じていたからです。

敗者には自由などない・・・という世界観でした。

そんな観念を見直すことになったのは、離婚をした時のこと。

朝晩の子供たちの送迎、家事に加えて自分のフルタイムの仕事や副業など、すべてを自分ひとりでやろうとした結果、体を壊しました。

そうなって初めて、
「ひとりで何でもできるほど、私は強くなかったんだ・・・」
と気づいたのです。

友人に弱音をはいて、子供に家事を手伝ってもらい、病院では先生に頼り、いろんな人に助けてもらいながら思ったこと。

私は誰も助けてくれないと文句を言いはしたけど、「助けて」とお願いしたことがあっただろうか。

助けてくれない!と心の中で怒って暴れている私には誰も近づけなかったでしょうし、助けようとしてくれた人に気づかなかったのかもしれません。

今もゴジラ映画を見ながら考えます。

自由ってなんだろう?
真に強ければ得られるのだろうか。

自由が何にも縛られないことなのだとしたら、ゴジラでもない限り不可能に近いですし、ゴジラですらエネルギー切れを起こします。
エネルギーを得るという点で、制約はあるわけです。

人として生きる上で何の制約も影響も受けないことはないでしょうし、人の自由とは、少なくとも好き勝手することではないように私は思います。

なぜ好き勝手することが、自由とは違うのか。

自己中心的に生きると、周りの人は離れていきがちですよね。
味方がいなくて、不安や寂しさに縛られていたとしたら、それは自由と言えるでしょうか?

以前の私のように、誰も助けてくれないと怒って、ひとりで頑張るのも自由ではないように思います。
怒りに縛られて動いているわけですから。


人間が一番自由だった時期は、あかちゃんの頃という話もあります。
泣いても笑っても怒っても、すべてを肯定してもらっていたからです。

その時期にはどうしたって戻れませんけれど。

受け止めてくれる人がいること、辛さを分かち合ってくれる場があること、その安心感があればこそ、心は自由でいられるのかもしれません。
大人に見守られながら、公園で自由に遊ぶ子供たちのように。

もし不安や辛さをひとりで抱えているのなら、お話をうかがわせてくださいね。

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