私が本当に許せなかったもの ~後編~

前編からの続きです)

離婚後の30代後半の私は、ある仕事終わりの夕方、母からの電話を取りました。
内容は忘れましたが、その話の中でなぜか急に私のことを『まりちゃん』と呼んだのです。

40年近い人生の中で初めて母から『まりちゃん』と呼ばれ驚きながらも、突如としてものすごい怒りがこみあげました。

(いい大人に『まりちゃん』とか急になんのつもりなの!?気持ち悪い、ばかじゃないの!!)
(ちゃん付けするほど、かわいいとも思っていないくせに!!)

心の中で激しく文句をいいながらも、なぜか涙が出てきて止まりませんでした。

子供のころ母が『まりこ』と呼ぶときは、たいていヒステリックに怒っているとき。
普段は、弟がいたので『お姉ちゃん』と呼ばれていました。

そのせいか私は自分の名前が大嫌いでした。
怒られるとき限定の名前ですから。

大人になって怒られることは無くなったものの、名前を呼ばれる抵抗感はずっと残っていました。
それなのに「まりちゃん」と優しく呼ばれただけで、泣くほど心が動いたのです。

なんで涙が出るんだろう?

そうか、本当は母に優しく名前を呼んで欲しかったのか。
とても欲しかったものだから、今までくれなかったくせに!!と怒っているんだ。

母なんか嫌いだと思ってきたのに、母の日に喜ばせたくて欲しがっているものを探したり、お礼の言葉を待っていたり。

大人になっても、やっていることはほめてもらいたい子供のころのまま。
そんな私が母を嫌いなわけがないんです。

けれど自分の気持ちをすぐに認めることができなかった私は、母への怒りを思いだして、なんとか愛がほしい自分を自分に対して隠し続けようとしました。

あんなひどいことをされた私は、母にとってどうでもいい存在だったはず。
愛してくれなかったから、私も愛さない!!

愛されていないように感じて、とても怒っていた私。
ひとしきり泣いたあと、ふと思いました。
母は何であんなにいつも怒っていたの?

もしかして私と同じように、母も私たち家族から愛されたかったのではないか。
自分の行いを気にしていたからこそ、あのお正月のリビングで『自分は人の気持ちが分からない』という話をしたのかもしれない。

みんな、こんな怒ってばかりの私に対して怒っているよね?
だけど私には人の気持ちが分からないから、仕方がないの。
許してね。


母も私から愛されたかったのだとしたら、私は母にとって『取るに足らない存在』ではなかったことになります。
自分は愛されない恥ずかしい存在と感じていたのは、私の『大いなる誤解』だったと今は思います。

自分を責めているとき、なかなかその責める世界から抜けだせないことがあります。
ひどい自分に罰を与え続けないといけないからです。

そしてその責める世界では、自分を責めているのと同じだけ自分以外の誰かのことも責めます。

「私はこんなに自分を責めて罰しているのだから、あなたもひどいことをしたら罰を受けるべきだよね」
と自分の価値観で、同じルールを当てはめるからです。

なぜ私が、ひどいことをしてきた母を許さなければいけないのか、とずっと思ってきましたが。
私が母を嫌いなままだと苦しかったのです。

どうして?

好きな母をも、攻撃してしまうひどい自分が許せなかったから。

本当に許せないのは母ではなく、自分自身だったのです。

母もおそらく母自身を責めていますから、家族や周りを攻撃したのでしょう。

お互いが無自覚に自分を責め、そのために相手を責めてしまっているのだとしたら、どちらかが攻撃をやめるまで終わりません。

終わらないとはどういうことか。
その関係性において幸せな気持ちになれないということです。

そこに気付いて、自分への攻撃の手を下ろす。
うまく愛せないと責めるのではなく、できない自分も受け入れる、許す。

とはいえ頭ではわかっていても、またすぐ自分や誰かを責めたくなったり。
何で私がこんなに苦しまないといけないの、と誰かを攻撃したくなります。
自分を責めることは、それだけ苦しいのですよね。

だけど自分や人を責めることがこれほどにつらいのだから、母も他の人たちも、同じくらいつらかったのではないでしょうか。

みんなも自分と同じような気持ちをかかえているのかもと思ってみることで、そこに理解が生まれ、攻撃的な気持ちになることが減り、私自身はかなり楽になりました。

すぐ誰かや自分を責めてしまう、そのつらさを軽くするために。
ご自身の気持ちをちょっとずつクリアにしてみませんか?

タイトルとURLをコピーしました